コンバンワ、経塚丸雄です。
ここからは、歴史無興味の方は逃げて下さい。
【これで全て解る!日本の戦(いくさ)の近代化】
(1)兵士の一般化(戦のスケールアップ)
鎌倉期までの戦は、矢を射ち合い、名乗りを挙げた後、馬上で一騎打ちをしました。
戰の主体は、あくまでも騎馬武者だったのです。
大鎧を所有し、馬を飼育できる武士――身分ある侍こそが戦の主人公でした。
雑兵たちも武装して戦に臨みましたが、基本、騎馬武者の補助者の位置づけでした。
それが南北朝の動乱期以降、大きく様変わりします。
何せ乱世が続きます。
困窮した庶民が武装し、雑兵となって戦に参加するようになったのです。
当時の戰場には、意外に美味しい話が転がっていました。
・敵を倒して、武具を剥ぎ取る。
・民家に押し入り、金品を強奪する。
・ついでに、女性をレイプする。
・元気な捕虜は、人買いに売り飛ばす。
・まかり間違えば功名をあげ、士分に取り立ても。
鬱屈した貧困層の若者たちは、喜々として戦に身を投じたことでしょう。
その結果、雑兵の大量動員が可能となってきました。
今まで、百人、千人で小競り合いをする程度だったものが、
数千人、数万人もの大規模な戦闘へとスケールアップを遂げたのです。
(2)弓から槍へ(戦い方の変質)
その雑兵たちの多くは貧困層でしたので、軍馬は飼えません。
元々農民や商人の出身だったので、弓や刀などの技術もありません。
あるのは、やる気と体力だけ。
結果、彼らは歩兵となり、あまり修行を要しない槍を手にしたのです。
習得が難しい弓・刀から、誰でも扱える槍が主力武器の座を奪い取りました。
戦場に、槍を手にした徒(かち)の雑兵が数多参加するようになると、
戦い方も一変しました。
騎馬武者たちは、優雅に馬になど乗っていられなくなったのです。
槍を手にした雑兵たちに囲まれ、馬ごと滅多刺しにされてしまいますから。
名のある侍たちも、乱戦となれば馬を下り、槍を手に徒で戦うようになったのです。
これでは、士分と雑兵、あまり変わりがありません。
(3)長柄槍の登場(促成栽培の兵士たち)
戦国期に入ると、武将たちは考えました。
「少数精鋭の武士団より、足軽(雑兵)を沢山揃えた方が戦では有利だな」
――と。
例えば、三河雑兵心得2の舞台でもある姉川の戦い。
浅井朝倉vs織田徳川、両軍併せて5万近い人数がぶつかりあった分けです。
後年の関ケ原に至っては十万人だ。
それだけの頭数を集めるなら、優秀な戦士を選り好みしている余裕はないはず。
味噌も糞も「誰でもおいで!」とせねば、5万や10万人は集められないでしょう。
つまり、短期間でド素人を、それなりに戦える軍人に育成する必要が生じました。
戦国大名たちが出した答えは「槍を長くする」でした。
槍は通常、二間(360㎝)以下ですが、
それを二間半~三間半(450~630㎝)にまで伸ばしたのです。
これを長柄(ながえ)、または長柄槍と呼びました。
戦法は簡単――まず、槍足軽を百、二百人規模で横に並ばせます。
長柄を構えさせ、皆で歩調を合わせ、密集して前進させるのです。
そう、まるで巨大な剣山を押し進めるるように。
これを「槍衾(やりぶすま)」と呼びます。
ただ、槍がそこまで長くなると、巧く刺したり、かわしたりするのは難しくなる。
では、どうしたか?
「叩いた」んですね。
5m前後の長い槍で、ひたすら敵を上からブッ叩いた分けです。
百人、二百人の槍衾が、一斉に長大な槍を振り上げる光景――怖いです。
当然、かなりの破壊力だったらしい。
兜の上から叩いても、頸椎や脊椎にダメージを与えることができました。
「敵の旗指を狙って振り下ろせば、ちょうど相手の兜の頂上に当たるべい」
そんなコツも、古強者から新米たちに伝授されていたようです。
素人足軽たちに課す訓練は三つの号令だけ。
(1)槍を構えて前へ進め。
(2)槍で相手をブッ叩け。
(3)後退しろ。
――素人の農民兵たちは、わずか数日の訓練でも即戦力の軍人となり得たのです。
(4)総力戦の時代へ
質より量で、雑兵をより多く集め得た者が、戦を制するようになります。
英雄豪傑の武勇や奮闘に頼る中世的な戦は、ここに終焉を迎えました。
で、兵士を多く集めるには、資金力が必要です。
各大名は領国経営に躍起となり、殖産興業・治山治水による増収を目指しました。
農地は拡大し、産業や流通も顕著な発展を見ることになります。
まさに、総力戦の時代です。
ここに一つの資料があります。
社会工学研究所という団体が1974年に推計した「日本国人口の推移」です。
西暦 1300年…818万人
1400年…890万人
1500年…953万人
1550年…1029万人
1600年…1227万人
1550年に初めて一千万人を超えました。
我々がよく知る武将たちも、ちょうどこの頃に生れているのです。
信玄1521年、謙信1530年、信長1534年、家康1543年、政宗と幸村1567年生まれ。
1560年には有名な桶狭間がありますね!
まさに戦国真っ只中。
つまり、我々日本人は「殺し合いながら、増殖していった」つうこと。
皮肉だけれど、面白いですね。
最後になりましたが、
経塚(井原忠政)が「三河雑兵心得シリーズ」の執筆を思い立ったのは、
一つには、戦国の小説が「英雄譚ばかりでは駄目だね」と考えたことにあります。
武将の生き様を、豪快に格好よく描くのも素敵ですが、
戦国の主役は、実は名もない雑兵たちだった――その点を世に問いたく思います。
買ってね!
ではまた、明晩19時に!