コンバンワ、経塚丸雄
いよいよ新作刊行!
三河雑兵心得シリーズの第四巻です。ご購入はこちらから!
最新刊「三河雑兵心得・弓組寄騎仁義」のクライマックスは長篠戦です!
どうぞ下記図を御参照下さい。
武田勝頼は、初め医王山に陣を敷きますが、西へ進んで天王山に本陣を移しました。
織田徳川連合軍は高松山に陣を敷き、その麓に全長2㎞におよぶ馬防柵を設け、鉄砲隊を配置します。
両軍は連吾川を挟んで睨み合い、午前八時ごろ開戦します。
武田騎馬隊が突っ込み、それを柵の中から鉄砲隊で迎撃した織田徳川軍が大勝利!
当初15000人を数えた武田軍は、5000人ほどにまで減り、午後二時頃潰走しました。
「でもなぜ、武田騎馬隊は無謀な突撃を繰り返したの?」
自然な疑問だと思います。
ま、この疑問への回答は「弓組寄騎仁義」を読んで頂くとして……ヘヘヘ。
信長が、馬防柵を設けた理由は、武田の騎馬隊対策だけではないと思います。
西洋兵学においては「野戦陣地」と呼ばれる戦い方があります。
会戦がおこなわれる戦場の真ん中に簡易な砦を築き、そこを拠点として戦う戦法です。
信長が導入した馬防柵は、正に野戦陣地であったと考えています。
戦国時代、鉄砲隊や弓隊は虎の子の戦力で、言わば貴重品です。
(弓隊は、弓の技術習得が困難なため、弓兵自体が貴重品です)
一方で、鉄砲隊や弓隊は足軽部隊なので指揮官以外は徒歩……機動力で劣るのです。
もし相手に押され、味方が退くと、虎の子の鉄砲隊が戦場に取り残され、敵に囲まれる危険性があります。
だから通常、野戦では「鉄砲隊を最前線に押し出す」ことはしなかった(できなかった)のです。
これを信長は「如何にも、勿体ない」と考えたのでしょう。
長大な柵(簡易陣地)を設けることで、鉄砲隊を最前線に押し出すことを可能にした。
そこに信長の狙い目と先見性はあったのだと思います。
武田の騎馬隊は梅雨時で増水した連吾川と馬防柵にトラップされたかも知れませんが、それはあくまでも結果であります。
本来、信長の主旨は(「馬を防ぐための柵」ではなく)鉄砲隊を野戦の最前線で使うために柵(陣地)を設営したと考えております。
馬防柵の名称も後付けだったのでは?
「日本初の野戦陣地を構築することで、信長は武田を破った」
これが「三河雑兵心得・弓組寄騎仁義」の立場です。
それではまた、明晩19時に!
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三河雑兵心得シリーズの第一巻です。
植田茂兵衛の原点を知ろう!