コンバンワ、経塚丸雄です。
毎日毎日、蟹工船のように歴史小説を執筆しております。
戦国物です。
来年二月から刊行が始まる「三河雑兵心得シリーズ」の第二巻を執筆中です。
第一巻は来年二月、第二巻は多分……四月刊行となります。
買って下さいね。無理は言わないけど。
第二巻のクライマックは姉川の戦いです。
家康は、岡崎から琵琶湖北岸の戦場まで、直線で100㎞以上も移動してるんですね。
移動距離は130㎞余となります。
で、元亀元年6月27日に現地に到着、翌朝には開戦しています。
しかも、6月27日は新暦に直すと7月29日……あ、暑い盛りじゃないですか!
戦国期は地球規模の天候不順で、気温が低かったらしいですが、それにしてもね。
とんでもないハードスケジュールです。
でも、下手に遅刻して、唯一無二の同盟者である信長に嫌われたら大変だから、必死で行軍したと思われます。
どのような旅程だったのか、調べて(想像して)みました。
(詳しい記録なんて残っていませんからね)
岡崎から大垣までは濃尾平野を横切る平坦な道です。
途中で、木曽川・長良川・揖斐川と三本の大河を渡るのだけが苦労。
ま、梅雨は明けていたはずで、さほどの増水はなかったでしょう。
大垣からは、山あいの道となります。
北から伊吹山地が下りてきて、南から鈴鹿山脈がせり上がってくる。
その鞍部を縫うようにして道が西に延びています。
途中に関ケ原があったりもします。往年の不破の関ですね。
関ケ原を過ぎて20㎞も進むと、琵琶湖畔に出ます。
暑いさ中、5000人で130㎞を行軍する。
大河3本の渡渉もある。
但し、大増水とか、酷い峠越えとかはなし。
これって、どのくらいの時間がかかったのでしょうか?
旧日本陸軍の行軍速度(師団規模の歩兵)は日に25㎞。
ローマ帝国の歩兵部隊は、日に20~30㎞……大体同じぐらい。
大坂に駆けつける徳川秀忠は、日に27㎞行軍して、徒侍や足軽隊が追いつけず、家康から大目玉を食らった由。
有名な秀吉の中国大返しは、日に20㎞程度ですが、それを連続して延々10日間・200㎞も続けられたのが「もの凄い」わけですね。
総じて
姉川戦時の家康軍は「日に20㎞強進んだ」と見積もることにしました。
徒歩で 130㎞なら7日かかります。
大河の渡渉があるから+2~3日?
10日前後の旅程かな……これで一応の目途が立ちました。
秀吉が200㎞を10日で超強行軍。
家康は130㎞を10日で、そこそこの行軍。
そういった方向性で執筆を進めることに致しましょう!
基本、執筆は楽しいのですが、時折は厭きます。倦みます。
そんなときは漫画を描く。
よい気分転換になります。
でも、頭が疲労困憊で、漫画のネタを考えるのも辛いときは「調べもの」をします。
今日も,この「戦国の行軍速度」を調べてリフレッシュしました……そんな俺って、変?
う~ん、単なるワーカーホリックかも知れません。
それでは、また明晩19時にお会いしましょう!