コンバンワ、経塚丸雄です。
家康はその生涯で、幾度が軍団の「編成替え」を行っています。
特に、三河平定の直後に採用した「三備」は意義深いです。
軍団を三つに分け、
西三河(家康の古い地盤)の国衆たちから編成される石川家成軍団。
東三河(三河平定以降に獲得した新領地)国衆たちの酒井忠次軍団。
そしてもう一つ。
馬廻衆と新設された旗本先手役の直臣軍団。
後者は、本多平八、榊原康政、鳥居元忠らが旗頭を務める最精鋭部隊です。
この直臣軍団、就中、旗本先手役を持ったことが、徳川の強さの源泉となります。
本来、戦国大名の軍編成は「郎党を連れ馳せ参じた国衆たち」の連合部隊でした。
この軍隊、中世的な非合理性に満ち溢れていたのですね。 以下論述します。
(1)時間がかかる。
国衆たちは、日頃領地に住んでいます。
郎党たちを集めて登城するには数日を要します。
即応性という意味では、カッタルイです。
(2)アマチュアだ。
国衆も郎党も地侍たちも、基本は農民です。または農場経営者です。
プロの軍人ではありません。
日頃は鋤や鍬を手に、野良で働いております。
槍や弓の鍛錬をつむ時間はないでしょう。
(3)総大将に遠慮がある。
大名は、配下である国衆たちの意に反する作戦は執れません。
国衆たちに「無理を言って、集まって貰っている」側面があるからです。
部下の顔色を伺いながらの作戦指揮……これでは駄目です。
その点、旗本先手役は直臣揃い。
この「直臣」であることが要諦。
彼らは岡崎城(後に浜松城)に常駐、家康から給金をもらう職業軍人でした。
日頃は弓や鎗の鍛錬を積み、有事には即応部隊としてすぐに戦場に駆けつける。
給料を払っているので彼らの殺生与奪は家康が握っています。遠慮は不要です。
どうですか……中世軍隊の宿痾、完全に払拭されているでしょ!
だから徳川軍、強かったんですね。
明日も、この続きをお話しさせて下さい。
クピは、神経質で癇癪持ちで臆病です(ハイ、すべて育ての親の責任です)。
レイも内気ですが、家では朗らかだし、我慢強い(勿論、育ての親の功績です)。
でもレイ子……ちょっとだけ食い意地が張り過ぎです。
また明晩19時にお会いしましょう!